日本最後の内戦、明治の西南戦争はなぜ起こったのか。西郷隆盛と武士たちの最後

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四民平等と武士たちの不満

江戸幕府が終わり明治政府が発足すると、それまでの身分制度『士農工』は廃止され『四民平等』が宣言された。

 

これにより全ての民は結婚や職業を自由に選択できるようになり、その後『地租改正』や『徴兵制度』が次々と導入されていった。

 

年貢は金納になり農民たちが喜んだのもつかの間、干魃によりそれさえ納められない農民が増え、不満も溜まっていった。

 

それに加えこの身分改革を喜ばない者もいた。

 

そう、武士である。経済的には秩録(いわゆるお給料)を保証されていたとはいえ、これまで命を掛けて人や国を守り、明治維新を成し遂げて来た武士(=志士)であったのに、存在する意味がなくなってしまったのだ。

 

西郷隆盛の征韓論

これに心を痛めたのが西郷隆盛である。彼は沢山の人に慕われる存在で、明治政府による廃藩置県の時には一躍をかった人だ。

 

『武士たちに最後の行き場所(=死に場所)を与えたい』そう考えた彼は征韓論を唱えた。

鎖国を解かない韓国を武力を持ってしてでも開国させるというものだ。

 

一方、これに反対したのが大久保利通であった。

 

『今は国を富ませ、国力を養う時であり、戦争など言語道断である』

 

岩倉使節団で欧米の視察を終えドイツのビスマルクから多くを学んでいた彼はこう訴えた。そしてついには天皇の名の下に征韓論を中止させたのだった。

 

『もはや、ここに自分のすべき事は何もない』と悟った西郷は薩摩へと帰っていくのであるが、不思議な魅力を湛えた人であったがため政府を後にした彼の元には1万人を超える人々が集結する事となる。

 

そして彼らは地租を納めず政府からの命令を無視して一つの独立国家のようになっていった。

 

日本最後の内戦へのカウントダウン 

そんな中、明治政府より『廃刀令』が発令された。

 

これは『武士の魂である刀を携えてはならない』と言うもので、武士たちの不満は一気に湧き上がった。

 

各地では、乱(神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など)が起こり、西郷の元には援軍を求める使者が度々訪れた。

 

しかし西郷は一切腰を上げようとせず、各地の乱は明治政府により潰されていった。

 

事が起こったのはその後のことだ、西郷を殺そうとした明治政府のスパイが薩摩でとらえられたのだ。

 

周りの者は大激怒し、西郷を説得。彼は一言『私の命を君たちに預けよう』と言ったという。

 

西郷隆盛と武士の時代の最後

こうしてついに西郷たちはは共に明治政府と戦うこととなり、明治期最大の反乱『西南戦争』が始まった。(1877年)

 

 

ところが政府軍はガトリング銃などの最先端の装備をもっていたため、いくら勇猛な薩摩兵士も力及ばず次々と戦死していった。

 

田原坂の戦いを機に薩摩軍は敗走を初め、被弾した西郷が自我して『西南戦争』は終わりを告げた。この西南戦争が日本最後の内戦である。

 

こうして人々は武士の時代の終わりを改めて感じた。武力による反乱・内戦は起こらなくなり、代わって登場するのが『自由民権運動』だ。

 

西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)

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